穂高見命(ホタカミノミコト)に由来する時代
穂高見命の名前は、現在の明神と言われる大きな平地付近から眺めた頭上の高く鋭い峰々が、稲の穂が立ってるとみて、おそれ多い事として、自ら名乗った名前となった。上高地を出てからは、穂高見命として、活躍し、全国に、穂高岳(穂高明神の為の山)、武尊山、奈良県南部に穂高明神岳が有る。
まさに苗字の宇都は、宇都の宮を連想させるが、西暦が始まるころには、安曇系一族は、九州北部から、島根等から丹後地方、瀬戸内海を経て、大阪周辺に一大拠点があったものと思われる。命の動きによって、信濃、北関東に勢力をのばしたもので、有ると思われる。
兄弟として、豊玉姫、振魂命(尾張氏)、及び、神武天皇の母とされている、玉依姫が、居るとされ、娘として、八坂姫が、それぞれの大社の祭神とされている様であり、ニニギ命と、親交があったとされる。ただ、天皇家とのつながりは、私には、わからない。当時は、海の一族として、相互関係の部族、住吉の一族が有った。
歴史上安曇族が、消滅するのは、安曇の一部の氏族、高橋氏により、平安時代以降となり、その後、徐々に様々な武家が、誕生してくる事となるようです。
安曇に関連する、主な地名として、安曇、アツミ、アドなどは元より、安曇の主神社とされている、志賀の島より、志賀、シガ。わだつみより、派生した地名、和田、及び、和田が付く地名。
現代まで受け継がれている、アズミ、アズマという、氏名、シガという氏名、和田(海の事)から、海を扱う姓として、渡部、ワタナベ、アマベ、アベ等が、日本隅々まで、いきわたっているようです。
上高地、明神地域から安曇野へ出た、安曇一族の軍隊は、まず、大きな湖と、荒れ放題の河川を、改修し、稲作を可能にし、館、神社を作った。穂高神社。祭られているのは、主に、穂高見命、綿津見の神、ニニギ命、天照大神、の4柱。20年に一度、海の神として、大遷宮を行い、その時には、新社造営と、志賀の島から、地盤の砂を運ぶ事となっているとの事。
安曇野、筑摩野には、関連神社も、数多く、関連地名も多い。
地名としても、穂高のほかに、倭、和田、新村等、多い。
上高地の明神地区は、特別に江戸時代後期には、上河内(上高地)を神河内(かみこうち)読み替え、善行寺道安曇編の絵地図上でも、昭和初期まで、正式名の穂高岳、尊称が穂高明神の為の山、明神岳。高い所に鋭く見えている峰々は、特に立て穂の山とも呼ばれていた。当時は、自由に旅行が出来なかった事などにより、山を越えての、参拝は、一つの娯楽で有ったのではと思われます。
この頃有った、メインの宿舎は、徳郷小屋。松本藩の役人も宿泊し、上高地一帯が、明治時代に入り、国有地化されていき、木材伐採の中心で有った小屋でもある。いわゆる現在の上高地全域が、林野庁の管轄となる中で、この小屋は、最後まで、上高地牧場の乳牛育成配置のための中心小屋で有った。
徳郷小屋は、(トクゴウ小屋)1933年、昭和8年、山岳名変更に伴い、改名改築によって、明神の館、「明神館」に名前が変更された。翌年、国立公園が制定された。更にのち、この地を中心としての、特別名勝を守るために、特別天然記念物となって行った。
いうまでもなく、有史以来、峠道は、上高地に入るための主街道であり、大正12年に、徳本峠小屋が創設された。
現在の、国道、県道によって、上高地に入る事は、一切不可能な時代の事です。
空白期
又、狩猟生活していたことであろう。
江戸時代、松本藩による、樹木の伐採出し
杣には、入り4カ村、今の松本市安曇区全域から、松本藩のため、徳郷の小屋に集結、山々に入った。
上高地に入った約14人ほどの出張役人は、徳郷の役人用宿泊小屋で数日過ごし、与九郎の地(明神橋辺り)で、木々をあらため、
後、湯屋に移り、釜を木々が通過するのを確かめて帰った。
現在の明神橋あたりに、上高地唯一の橋、与九郎大橋があった。善光寺街道の一部。
現在、これらの地名は、忘れ去られているが、トクゴー(徳郷、徳吾、徳合、徳後)は、今の明神館の地を中心とした、南北1キロj以上に及ぶ、かなり大きな平地である。
この地は上高地の中心なので建物も多くあったと思われる、何軒も小屋があったはずなので、徳郷が、最も当時を知る名前として適格であると思う。
明神館の前身の徳郷の中でも、松本藩役人小屋は、1600年-1700年に創設されている。
与九郎の地は、明神館と明神橋の間の地のこと。
宮川とは、明神池付近の場所のこと。
明治に、キコリ小屋の一つ、宮川の小屋に住みついたのが、嘉門次です。
江戸時代終わりに、湯屋を旅館にし、上高地温泉が出来る。
明治時代初期に、メインのキコリ小屋、徳郷小屋を旅館にしたのが安曇島々地区の大庄屋、西方、現在の松本市安曇支所下手付近に居た、奥原家です。
島々区には、真ん中の島々川をはさんで、東西2つに、大庄屋の流れが分裂されていたので、間違える方も多い。基本的に、徳郷小屋及び、明神館の昔の持ち主は、土建業(金八)を営んでいた、上高地にかかわっていた西の奥原家、奥原勇氏が最後となり、歴史と共に、全ての権利は、血族で義理の子、安曇野有明山の下手から発祥していた、梨子田家に売り払われている。
徳郷小屋は、言うまでもなく、旅館、明神館の前身です。
「信府統記」等は、穂高岳とは、穂高明神の鎮座する山としている。
明神周辺を、神合地としているが、一般的には、下の村の上の位置の領分として、上口、上河内であり、変形は、神河内、それ以外に無い。神河内の場所は、明神から明神池の間の事である。
穂高神社本宮から、奥宮参りも、江戸時代後期には、しばしば行われている。たぶん徳郷の小屋の一つに泊まったことでしょう。
明治時代から。 材木伐採と牧場の時代そして登山の黎明期
- 明治元年
キコリ小屋の炊事夫、嘉門次、上條家の養子となる。 - 明治7年
上高地の木材伐採に係った「入り四ヶ村」合併により安曇村誕生 - 明治14年
ウィリアム・ガウランドが日本アルプスを命名した。 - 明治18年
上條百次朗(私の祖先の一人)現在の明神に、上高地牧場開設、最初の牧場の一つとしては、現在の河童橋渡った当たりを使ったもよう。
嘉門次、上高地牧場に上納することで、池で漁をすることとなる。 - 明治24年
ウォルター・ウェストン、旧島々村の旅館、清水屋の主人と旧島々村橋場地区の案内人とで上高地へ入る。 - 明治26年
ウェストン穂高岳(現在の明神岳と前穂高岳の総称)登頂
宿泊地として、徳郷小屋に宿泊。案内人として、上高地牧場配下の嘉門次と上條万作を選ぶ。(ウェストン記録による)
漁師、嘉門次がたまたま、案内人の一人に選ばれた。 - 明治29年
ウェストン著書発表
このウェストンの発表によって、長い間、幕府に隠されていた、隠れ里であった、上高地が公となった。
小島烏水により、徳郷の小屋(明神館の旧名)、温泉宿(上高地温泉)、宮川の小屋(嘉門次小屋の旧名)の三つが上高地にあったことが確認されている。
徳郷(現在の明神)の小屋には、放し飼いの牛馬を監督する男が住んでいたという。 - 明治31年
宮川の池(明神池)が長野県の社有地となり、翌年穂高神社に引き継がれる。 - 明治38年
日本山岳会発足。 - 明治43年
現在のような吊り橋として初代河童橋できる。 - 明治45年
養老館(五千尺ホテルの旧名)開業。 - 大正2年
陸軍陸尉測量部により、日本地図編算にて、それまで、「峠」と言えば、上高地に入る道はこの峠以外に無く。
突然、徳本峠の名前が当てられた。
「徳本」の漢字の由来は上高地に関係無いようなので、官製の当て字である。
徳郷へ到る峠なのでそうなった。この地図には、現在の明神岳の位置が明らかに穂高岳があり、その奥の方に奥穂高岳があり、その他の穂高岳は現在の位置とは異なっていた。奥穂高岳が、岐阜県から登る山であり、上高地の中心は、明神の場所で有ったことによる。 - 昭和初期
山岳名の大変更により穂高岳の名称は、明神岳連峰群と前穂高岳連峰群に分割され、菊の紋章にかぶり、怖れ多いことから、神の山、単純名の「穂高岳」の名称が消滅し「明神岳」となった。 - 大正4年
焼岳大爆発、出来た池を大正池と命名。 - 大正5年
山林局が上高地一帯を保護林に指定、長く続いた材木伐採の歴史が幕を閉じていった。 - 大正12年
上高地温泉㈱が、徳本峠小屋を設立。 - 大正13年
徳郷に、吉城屋開業(8畳一間の平屋)
徳郷小屋の権利者、西の奥原家による、吉城屋明渡し裁判始まる。 - 昭和2年
芥川龍之介、小説、「河童」発表 - 昭和3年
上高地が国の名勝及び天然記念物に指定される。 - 昭和4年
徳沢園が牧場の小屋として始まる。
(大正時代の地図によると真ん中を流れた徳沢は、かなり深い川で有ったが、 地盤が安定して、徳沢園前の牧場の跡地は、現在、広大なキャンプ場となっている。) - 昭和8年
上高地へバス乗入れ、帝国ホテル開業、 - 昭和8年
徳郷小屋の権利者により、明神館の開設。 - 昭和9年
上高地が中部山岳国立公園に指定される。同時に長い間続いた上高地牧場が終わる。 - 昭和10年
河童橋までバス乗り入れ開始。 - 昭和23年
岐阜県平湯までバス乗り入れ開始。 - 昭和27年
奥原 勇、梨子田 昇に,明神館及び上高地の権利の全てを売り渡す。
義姉の新村つとふ(伝)が、戦前より、支配人をしていた為、勇氏は、家業の土建業に専念していたが、この機会に新村つとふの子、昇に売り渡しを願い出たためである。 - 昭和27年
特別名勝及び特別天然記念物に指定される。 - 昭和28年
上高地の主官庁が、林野庁から厚生省へ所管替え田代橋から小梨平までは、集団施設地区として、及び徳沢地区は、これにより、厚生省、後には環境省の土地へと変貌する。
明神、明神池地区は、古来、木材と関連が深かったのか林野庁の土地のまま。
三つの顔の上高地
昭和30年代を過ぎると、奈川渡ダムの建設等、バス道が整備される。
- 昭和31年
30年1月2日の実在のナイロンザイル事件を材料に、井上靖、小説「氷壁」 - 昭和40年
上高地バスターミナル完成 - 昭和42年
第一回上高地開山祭。 - 昭和40年代
中の瀬、及び徳郷(白沢の渡、明神)のキャンプ廃止。 - 昭和50年
上高地、岩魚全面禁猟となる。
昭和30年代までは、登山といっても今と全く比べ物にならない。
まず、横長のキスリング(ザック)。
ほとんどは、徳本峠を越えた。バスで来ても、歩いてきても、時間には、変わりが無かった為であろう。
高村光太郎と智恵子、芥川龍之介等など、文化人も徳本峠を越えた。
そして、入山者数は、比べ様も無くはるかに少ない。
今、上高地と言えば、河童橋と、大正池しかない、という時代となった。
- 平成10年
中部縦貫道の一環として、安房トンネルがあいた。
今後は、どのような展開になるのでしょうか。